金谷山大明寺

金谷山大明寺は横須賀市にある日蓮宗の寺院です。

TEL.046-851-1760

〒238-0031 横須賀市衣笠栄町3-77

縁起
 

大明寺とは

金谷山大明寺は三浦半島のほぼ中央部、横須賀市衣笠栄町に所在する。JR衣笠駅から北西へ1キロ程のところで、鎌倉街道の古称をとどめる道路に沿った丘陵中腹に建つ日蓮宗の古刹である。
 

歴史

もと京都・本圀寺派に属する中本寺として、三浦半島を中心に33か寺の末寺を擁し広大な伽藍を誇っていた。当寺の文化財については市教育委員会による文化財総合調査の一環として昭和54年に調査が実施され、その概要報告がなされている。
今回、市史編さん事業として、当寺の主要文化財である仏像彫刻について、改めて確認および補足的な再調査を行なう機会を得た。このためその主な作例にしぼりながら、知りえた成果をふくめて彫刻史研究による所見を述べあわせて寺史および日蓮宗特有の教義・信仰に基づく若干の説明を付して、大明寺の文化的様相の一端を次に明らかにしてみたいと思う。
日蓮宗、もと京都・本圀寺末で、六条門流に属した。その創始は宗祖日蓮の檀越石渡左衛門による草庵建立といわれ、これを米ヶ浜道場、または三浦法華堂といい、日蓮を開山とする。のち、左衛門の子息平三郎則次の子で第六世大妙房日栄の明徳年間(1390~94)に現在地に移転、寺号を大妙寺(大明寺は当初大妙寺と称す)としたと伝え、日栄を中興開山とする。
また別伝があり相州三浦の石渡平三郎は甚だ富裕の人で夫妻して鎌倉本国寺(松葉谷法華堂)の妙龍院日静に篤く帰依この法縁により自家を寺とし一子をその弟子とする。すなわち大妙房日栄である。のち伽藍を整え金谷山大妙寺と称し、日栄を開山としたという『日蓮宗年表』によれば、これを応永6年(1399)のこととする。 この石渡平三郎則次は俗に「法華の平三郎」と呼ばれた「無二の信夫」で応安2年(1369)に京都・本圀寺で執行された日静の本葬式に天蓋を捧持して参列していることなどから当時本圀寺派を支える有力檀那であったことがわかり、すでにこの頃家を寺にしていたことも推察される。   このようなことから、寺の成立についての伝承とも併せ勘案すれば、大妙寺は平三郎が家を寺(三浦法華堂か)としたものを、14世紀末頃に伽藍を整え本格寺院として開起し、その実質開山は大妙房日栄であったことがうかがえる。日栄はこの地方の有力者で開基でもあった石渡氏の出自であり、大妙寺は石渡氏の氏寺的性格が強かったものと思われる。
大明寺は幾度かの不慮の災害で記録類が失われ、室町時代の寺史についても徴すべき資料はほとんどないが、この時期江戸太田氏との法縁が伝えられている。すなわち太田道潅の子資康三浦道寸に与同して永正10年(1513)9月三浦において討死大妙寺に葬られたという([寛永諸家譜][太田家記])だが資康の歿年には諸説があり,すでに永正7年に嫡子資高が太田大和守を名乗ることなどから資康の三浦での討死を否定する説がある。 この場合でも資高が江戸平川に父資康の13回忌供養のためその前年の大永4年(1524)に、法恩寺(本住坊)を建立したということ。その際、三浦大妙寺の住持日瑞(天正4年寂)を招き、開山としたということなどが記録されている。   これに関して太田氏の法華信仰をみるに、すでに文明10年(1478)に太田道潅は京都・本圀寺に番神堂を建立13世日遵は道潅の季子であるといわれその兄資高は永正11年(1514)に輪蔵を造立するなど、道潅の頃から本国寺と外護檀那の契りを結んでいたことがわかる。このため関東における本国寺派の有力寺院であった大妙寺との法縁関係も、資康、資高時代には結ばれていたことが想定されるのである。
『新編相模国風土記稿』にある元和元年(1615)の大妙寺番神宮再建の棟札裏に追記された三十番神像造立に関する銘文に、「(前略)此山願主太田氏某、永正年中、奉再興之、願主太田伴好斎、子息権大僧都日導開眼(後略)」とあり、太田氏の檀那としての作善の様子がうかがえる。文意がやや不明であるが、銘文中の太田氏某は資康であろう。伴好斎はその子資高、日導は日遵の誤記と思われ、前述の太田道潅の三子で本圀寺13世のことであろう。   この時代大妙寺の教線は広く半島内に伸展し、日蓮宗発展の基盤が形成され、併せて同じ日朗門流の別派の弘通もあり17か寺もの法華寺院の建立がみられている。
江戸時代に入ると徳川幕府は「寺院法度」を布下し、本末制度が規定された。寛永10年(1633)に京都・本圀寺から幕府に提出された、『本圀寺末寺帳』に「寺領十六石 相模国三浦大妙寺」とあり、大妙寺は京都・本圀寺の末寺であることがわかる。この大妙寺の記載部分に、「干今汲日樹余流不従本寺之下知也」とあり、大妙寺に不受不施派の池上本門寺主日樹の余流がいて、本寺(本圀寺)の下知に従わないと余記している。   このころ大妙寺は関東における不受不施派の一拠点で、17世日航や18世日慈など三浦派といわれ活躍する。ことに日慈は京都・妙覚寺の日奥の弟子であった。このため本山本国寺の下知に従わず強硬な不受不施義を堅持したことから寛文元年(1661)8月老中より本寺に違背する末寺の御仕置が達せられ、大妙寺も幕府の厳しい弾圧に遭遇したであろうことは想像に難くない。   これに関連して『太田家記』に「三浦大妙寺古跡之所二、先年不受不施御制禁之節より此寺無住に罷成、本国寺支配に成候、依之道顕様其頃之浜松宗林寺住持日成を大妙寺住職に被遣(後略)」と記されて、この間の大妙寺の事情が明らかになる。道顕とは太田道潅六代の嫡孫で、当時浜松城主であった太田資宗の法号である。「此寺無住に罷成」とあるのは、幕府の徹底した一連の禁圧政策のなかで、大妙寺の不受不施派の人々が配流等の処罰を課せられ、寺を追放されたことを物語っている。   これにより大妙寺は本圀寺の支配に服するようになり、太田資宗の斡施で浜松・宗林寺の日成が、大妙寺に入寺する。宗林寺は資宗が父重政の菩提のため建立した寺である。なお、大妙寺歴譜によれば、日成は第二十世という(『日蓮宗寺院大鑑』)。寺存亡の法難を経た寛文5年(1665)8月になると、二十一世日迢は身延山に「受不の誓状」を提出しており(身延山文書)幕府から改めて朱印状を受けている。「大妙寺」が「大明寺」と改称されたのは、この頃のことであろう。この事件のなかで、中世以来の檀那である太田氏の関わりは、決して小さくはなかったことがうかがえる。   この宗門を二分するような論争と法難に対処した大妙寺の歴住等で、のちに除歴などで歴代譜に見えない人々がいる。15世日宥、16世日然、17世日航、18世日慈および日淳などの人たちで、このうち日航、日慈は学僧としても聞えていた。
こののち天明6年(1786)に再度の [法華宗本圀寺派下寺院帳]が幕府に提出されるこれによれば大明寺は、「御朱印十六石 末寺33ヶ寺 塔頭二軒 金谷山大明寺」と記され、大明寺末寺として大塚山妙蔵寺以下33ヶ寺が並記される。この頃になると本末制度も本格的な定着をみせ、大明寺も六条門流の中本寺としての寺格と伽藍規模を備えた寺院として発展を遂げる。   やがて明治となり廃仏棄釈寺領の上知など寺運の頽勢をみるなかで明治19年(1886) 1月 不慮の大火に遭い仁王門を除く広大な伽藍(16棟)が悉く灰燼に帰した。幸い本尊など諸尊像は多く取り出され以後歴代の復興事業もすすんで現在でも半島一の伽藍を誇っている。